これはあくまでも、自分の予想・空想にしか過ぎないことを先に断っておく。
市橋容疑者は、恐らくリンゼイさん殺害にも関わっているだろう。
殺害直後、きっと彼は相当に動転しただろう。
最初から殺すつもりだったというわけではないと思う。
感情・激情に駆られての犯行。
気づいたときには、目の前でリンゼイさんが横たわって冷たくなっていた。
最初は、動転。
目の前に死体があるという恐怖。
その恐怖に耐え切れず、一度は部屋を逃げ出した。
部屋に戻るのは怖い。
しかし、自分の部屋に死体を放置するのも怖い。
彼は園芸用の土を買って自宅に戻った。
そして、遺体をベランダの浴槽に入れた。
もしかしたら、浴槽も購入したのかもしれない。
ここまでしても、彼の恐怖が静まるはずがない。
窓一枚隔てたベランダに、リンゼイさんの遺体があるのだから。
身近に死体があるということが怖くて怖くて仕方がない。
だからといって、引っ越すわけにはいかない。
彼の頭の中は煮詰まっていた。
そこへ、捜査員がやって来た。
死体に対する恐怖心を常に抱き続けて飽和状態の彼の心身は、
尋常ならざる緊張状態にあり、アドレナリンが分泌されやすい状態。
捜査員という刺激に反射してアドレナリンは大放出され、
肉体は平常以上の力を発揮して追っ手を振り切った。
不本意な形とはいえ、死体から離れることができた彼。
一旦は恐怖から解放されたが、別の恐怖が沸き起こる。
逮捕される恐怖。
それから二年七ヶ月ほどの間。
彼の心の中を占めていたのは、おそらく恐怖。
一番怖いのは、捕まること。
人命を奪うという極悪なことをしたことは分かっているけれど、
それ以上に、ただひたすらに、捕まることが怖い。
だから、整形後の顔写真を公開されてなお、出頭なんて考えきれなかった。
そんなことを考える余地がないほど、頭の中は恐怖で一杯。
ただ、二年七ヶ月に及ぶ慢性的な恐怖は心身を疲労させ、
彼にアドレナリンを分泌させるほどの影響力はなかった。
フェリー乗り場で捜査員から声をかけられた時。
素直に「はい」と応じたが、市橋容疑者は観念していたわけではない。
体が動かなかったのは、彼自身にとっても驚きだったに違いない。
催涙スプレーまで用意していたのだから。
彼が抱き続けた逮捕への恐怖は相当なもので、徹底的に逃げきるつもりだった。
逮捕されて、彼は逮捕の恐怖からは解放されたが、
次は裁かれる恐怖に晒され、服役する恐怖に晒され、
服役中には出所後の社会復帰に対する恐怖に晒され、
恐怖は形を変えながら連鎖して、常に彼を苦しめる。
リンゼイさんに死の恐怖を押し付けた時、
彼は同時に、自分自身に恐怖の鎖を巻きつけたのだ。
どんなに反省したところで、リンゼイさんは還らない。
しかし、彼をこの鎖の呪縛から少しでも救えるものがあるとしたら、
それは、彼自身の心からの反省ではないだろうか。
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